電車の中で子供連れの大人が子供に接する様子を見ていると、文化的な違いを感じることが多い。
南米の家族は、親の膝の上に子供を乗せてみんな近くに座れるようにする。
中国人一家は、家族がばらばらになっても、とにかく空いた席に全員座る。下車するときは大きな声で号令し、一斉に電車から降りホームで集合する。
南アジアのイスラム圏から来ているらしい家族の、すざましい様子を目の当たりにしたことがある。まず電車の扉が開くと、父親が真っ先に人をかき分けて車両に乗り込み、席を確保する。隣が空いていたら、続いて乗り込んできた小さな息子を座らせる。後からゆっくりとついてきた身重の奥さんが、その前に立っているのだ。この時ばかりは私だけではなく、同じ車両にいた人はみんな嫌悪感を示した。
韓国人の家族が乗り込んできたら、だいたい子供を席に座らせ、親が側に立つ。 時には祖母を立たせたままでも、孫息子を席に着かせる——日本もこのように男の子を優遇してきたのだろうか、日本でも大人になった大の男が、回りの状況を気にせずに、大きく足を広げて席を占領している光景をよく見かけたことを思い出す。
総体的に見て、東洋人が男の子を優遇しているのは一目瞭然。日本の場合、経済力で先進諸国と肩を並べただけで、モラルは後進国のままであるのにはちゃんと理由がある。女は男をたてるよう教育されてきたが、男は母親を含め女に感謝を言葉やかたちにするよう、きちんと教育されないからだ。そしてそれが今、日本が抱えるすべての問題の根源になっているような気がする。
言葉では知っていても『男女同権』を日本は実践しようとしない。法律上、性差を考慮した上で社会的に男女ができるだけ同じ権利がもてるように努めている先進諸国のようにできないのは、この古い日本の体質のせいだ。強いものが生き延びるのではない。環境に柔軟に変化できるものが生き延びるのだ。近代化に伴って変化してこれなかった日本は、この先滅びるしかないとさえ思う。
日本には、働く女性に堂々とセクハラをする男性上司がたくさんいるらしい。(そんな男を育てた母もたくさんいるにちがいない) ニューヨークで、日本人男性がビジネスの場で信じられない言葉使いをしているのを聞いたことがある。そんな男にも妻や子供がいるんだなと思ったら、こんな夫を持つなんてことが、他人ごとでよかったなとしみじみ思う。女性は女性で、社内で波風立てないようにただ作り笑いをすることも多いのだろう。また社会に出て働き始めた女性が、すべて男性並みに働くことを美徳としてきたからかもしれない。結婚したらしたで、女性には仕事と家事と育児の両立を強要されるし、時には暴力を正当化する夫に耐えることさえ要求される女性がいるらしい。「男を怒らせるのは女の責任だ」とさえいわれるらしい。だったら、それほどのリスクをおかしてまで結婚し、子供を持つ意味があるのだろうか。ましてや生活費もままならないなら子供は生まないという人も多いだろう。それに生まれてくる子供にも法的に守られるには、婚姻関係にある男女の間に生まれることをはじめ、たくさんの条件が課せられる。子供でさえみんな平等ではない。だから日本は少子化なのだ。
それにしても日本の古い体質は、これまでなぜ覆せなかったのだろう。多分、それは母親が自分の子供を育てる時、「ひとりの人間を育てている」という意識が欠落しているからではないだろうか? 『モンスターペアレンツ』という言葉があるように、自分の子供だけを溺愛したり、他者に対して常識が欠けた行動をとっているのではないだろうか?
母親がこれまで家事育児で家庭を支えてきたのなら、女性が子供を育てる上で、男女で足りないところを補い合う大切さを教えたり、平等に育ててこなかったツケがまわってきているのではないだろうか? 日本の男たちが家事育児をしなかったのなら、育児に携わってきた女性こそが男尊女卑という日本の封建的な体質を変えるもっとも近いところにいたはずなのに、そうならなかったのは、女性に大きな責任があるような気がしてならない。