メモリアルデーの週末、レンタカーを飛ばしてピッツバーグへ出かけた。私にとっては初めてのピッツバーグ。面白い発見がたくさんあった。最初はクルマの中で聞いたラジオ番組。クリスチャン系の放送が多いところを見ると、そういう人たちが多く住んでいるところなんだと、街に着く前に実感させられた。
信仰についていつも思うのは、守らなければならない戒律が、時に理不尽であることに、信者は心底納得しているのだろうかということ。その例としてもっとも顕著なのが、オーソドックスの男性ユダヤ教徒の、真夏に白の長袖シャツと黒のジャケット、しかも立て巻きクルクルヘアの上にヤマカと黒いシルクハット姿。みんな炎天下で汗をダラダラ流している。この服装が唯一とはいえ、スポーツジジムでも白いYシャツはさぞかし不快だろうと思う。時にはパーッと全部脱いでしまいたい衝動にかられないのだろうか? 既婚女性は毛髪を剃ってカツラを被る。長い歴史の中でできた決めごととはいえ、みんなちゃんと守っているという忠実さに驚く。
キリスト教にも、日曜に教会へいくのはともかく、年に一度アッシュウエンズデーという、額に墨をつけるという儀式がある。街中顔に墨のついた人たちが真顔で歩いているのには、いまでも違和感を覚える。キリスト教の教えも、ほとんどのキリスト教徒は忠実に守っているようには思えない。離婚率の高さを考えれば、教会で結婚するときの誓いは偽りに満ちている。
イスラム教に至っては、ほとんど同意しがたい。男尊女卑もいいとこだし、物事の解決方法が暴力と破壊。相対する者との妥協点など決して探らない。利己的で非建設的だ。
こういう宗教を信仰するにあたり、選択肢が狭まったりなくなったりするのなら、いっそのこと信仰しなければいいとも思わないのだろうか?
仏教や禅、そして(天皇が神扱いされる前の)神道を含め、東洋の宗教が時として宗教と見なされないのは、戒律に生活が縛られることがないからだと思う。それに誤解を恐れずに言えば、こちらの方がずっと理にかなっているし、その教えは宗教という枠を超えて、もっと哲学的だし、もっと精神に直結した教え、もっとはっきり言うなら、人間としてのあり方、生き方を自分で考えるための道徳哲学だ。それならなぜ日本人のモラルがここまで低下したのかと問われれば、その教えが貫かれていないからだとしか言いようがない。もしくはなんでもかんでも神様だと崇めてきた結果、人はわけがわからなくなったのだろう。
神道は元を正せば天照大神(太陽)が神様。しかも女神で、その象徴は鏡である。教えは「この世に存在するすべてのものに神が宿る」ので、ものを祖末にしてはいけない。他者を尊ぶという精神から、東洋の宗教は他の宗教の偶像を軽卒に扱わない。大仏の頭をインテリアとしてリビングに飾るのは仏教徒ではない場合が多いが、その無神経さはいったいどこからくるんだろう?
アメリカは多分ヨーロッパより保守的で、例えば同性同士の結婚に関し、聖書の解釈を政治に適用する。多民族、多宗教国家で、こんなことがすべての解決策になると思えないけど、かといって政治と宗教を切り離して考えることができないのも事実。なにせアメリカには、普段は不貞を働いていても、自分の主張を通すときに限って、自分が属している宗教を持ち出す人が多いのだから。
と思っていると、バーでそこに住む人たちをちょっと見下して「進化論もわからないで何がわかる?」と誰かが痛快なコメントを放った。やっぱりどこにでもアウトローはいる。