August 30, 2007

何が人を美しく見せるか

以前住んでいたクイーンズ地区からマンハッタンのオフィスまで地下鉄で通勤していた時、同じ車両でよく見かける男性がいた。容姿だけでなく、私はその人をとても美しいと思った。

彼は浅黒い肌で、顔つき、骨格からみても明らかにアメリカ先住民の子孫だ。手入れの行き届いた黒い長い髪を背中の真ん中あたりまで伸ばし、身体にちょうどあったサイズのスーツを着て、磨きのかかった靴を履いている。空いた席があっても決して座らず、背筋を伸ばして、顔をツンと斜め上に向けて、まっすぐ堂々と立っている。車両で彼を見かけたときはいつも同じようにスーッと立っていた。いつ見かけても、まるでアメリカンインディアンの血を誇らしげに思っているかのようだった。

一方、自分の生まれた国を嫌う人は、同情する面もあるが、その人を決して美しく見せない。それがどんなに美しい人であっても、なぜか魅力的に見えないのだ。たとえブラジルに生まれても「国としてはまだまだ貧しいけれど、サッカーが強い」とか、「みんな陽気で食べ物はおいしく、生活を楽しもうとしている」と聞くと、その人が生き生きとして見える。

自分の嫌いなものの話ばかりする人は、その話がどんなに面白くても、品格があるように見えない。これは自分にははっきりとした嗜好があることを自慢したい時や、自分にパワーがあることを見せるために、子供が“No”と言い続けるのにも似ている。実際、自分の好きなことや楽しかった体験を話す人が清々しくみえるのとは対照的だ。恥ずかしがってばかりいるのも、謙虚にしているのとは違い、野暮な感じがする。

アメリカには実にいろんな人がいる。いろんな職業もある。どんなバックグラウンドを持っていても、どんな仕事に就いていても、誇りを持って人に語れる人は美しい。ウエイトレスをしている人たちでもプロとして、笑顔で給仕していると、その人がとても頼もしく、美しく見える。

これらは実際に自分で「美しい」人を観察した結果であるが、思えば子供の頃、「姿勢を正しなさい。きちんと話しなさい。笑顔でいなさい。どんな仕事でも、誰かがしなければならないのだから誇りをもちなさい」と、親から言われたことをちゃんと実践すればいいだけのことだと気づいたのも、世界が見えてきた頃だった。